物差しに生きる人々、インド人の学歴主義の正体とは?カースト制度の消え失せた近代都市バンガロールの、新しいカースト。
インド首都、デリーの地下鉄で切符を買おうと列に並んでいる時の一瞬の出来事。
潤pの前に並んでいた、身なりのいい男の財布からお札が落ちて、それに気がついた1人の身なりの悪い男が肩を叩いて呼び止めた。
身なりのいい男は気がついて拾うものの、何も感謝するわけでもなく、目も合わせずに、その男を半ば無視するようにして行ってしまった。
インドでは、未だに人間の線引きのようなものが存在するのは事実であります。
カースト制度は法律で禁止されたとはいえ、未だに人々の深層意識の中には根深く入り込んでいると思わざるをえない場面があるのです。
しかし、最近は、新しい形の人々の線引きが、特に発展都市で起こっています。
「学歴」という新しい格差。
前回の記事でもお伝えした通り、インドは恐ろしいまでの学歴社会。
人口の多いインドでは、1人の人間を判断する最も手っ取り早い物差しとして「学歴」が大きな意味を持っています。
より良い仕事、より良い将来を望むには、高学歴であることが必須ですし、より上の学位を持っていることは、その人の社会的な地位も証明するのです。
多くの学生が理工系であることもその大きな要因の1つですが、バンガロールで普通に生活している人に最終学歴を聞けば、ほとんどの人がマスターは取得しているという事実。
恵まれた将来を描くには、より高位の学位を取得して、いい大学に入れれば、その人の将来は安泰と言えるわけでございます。
物差しに生きる人々。
では、なんでこれだけ学歴が問われる社会なのか?
潤pなりの推測を綴っていこうと思うのです。
「一定以上の人間」であることの証明手段。
1つ目は、これだけ人口爆発のインド。多すぎる人口の中で、その人がどんな人間であるのか一瞬で理解出来る何かしらの物差しは、とても便利な道具として働きます。
人々の生活レベルと同様に、知識レベルも天と地ほどの差があります。学力に付随する一般常識のない人や、そもそも識字力がない人も大勢いるわけです。
学歴がある、高学歴である、つまり、大学に通えるだけの環境であり常識を持ち、その人が「一定以上の人間」であることを証明する一番の手段であるのです。
ゴミを、道に捨ててはいけないことすら学んでない人が大半を占める中、その人が国際社会でいう「まとも」な人間であることを示すことができるのです。
カースト制度に変わる、新しい「身分制度」。
次に、バンガロールという場所で、特に学歴が重要視される点に注目して見えてくること。
バンガロールは、インドにしては珍しく、所得格差が比較的開きが狭く、住民の平均化が取れている街であることは、スタートアップを流行らせる一因にもなったことを以前の記事で書きました。
しかし、この格差の消滅が、新たな格差を生み出そうとしています。
どうにもインド人は、物差しの中に生きる人たちのように感じるのです。
所得が格差が縮まって、カーストという概念が薄れていくと、人々は自分と相手を判断するための術を失います。
そこで、登場するのが学歴。
明らかな絶対値で人が点数化され、そして誰もが得るチャンスが生まれたこのフィールドは、バンガロールの新たな格差生産システムとして今の社会に登場してきました。
カーストが減った分、人々の次の寄りどころが、学歴になったのではないか?と思われるのです。
いくつもの宗教に言語が入り乱れるダイバーシティのインドで生き残るには、厳しい生存競争に生き残っていかなければなりません。
超初期段階の振るいとして学歴で人々をほぼ全自動的に分けていくことができるということは、人口爆発のこの土地で、非常に合理的な考えとも言えるように思います。
高層にいるであろうインド人がプライドが高いのも頷ける。
上位に位置する人は、それだけの競争を勝ち抜いた価値のある存在。