ケツは手で洗え。
日本を飛び出して早4ヶ月。
潤pのケツを取り巻く事情も、刻一刻と変化している。
ケツを拭いたローリングパーペーを、水に投げ入れ鮮やかに溶かすことができる日本のそれは、世界的に考えればもはや一芸とすら呼べる希少な代物であることは想像に難くない。
旅の初め、大陸へ渡った韓国と中国で繰り広げられたのは、水の噴射能力が弱く足元に置かれたゴミ箱にケツを拭いたペーパーを打ち込むスタイルであった。
そこから南西に下り東南アジアエリアに入ると、ピストルが主流である。
全てのトイレには水を噴射する水鉄砲のようなものが設置されており、それを使い洗い流すのである。
東南アジアのピストルウォシュレット画像引用
ケツをむき出し別座に座り、用を足した後、門戸に銃口を構え噴射する姿は、人には見せられない哀れ極まりない姿と呼べる。
それにしても、各国を渡り、文化に慣れ、食に慣れ、貨幣感覚に慣れていくのと同じように、ケツを取り巻く事情にも、やはり人間は適応していく。
東南アジアのピストル主義も、気がつけばペーパーで拭き取るのがアホらしく思え、水鉄砲の噴射こそケツ周辺環境を清潔に保つ唯一の方法とする信仰心として芽生えてくる。
さて、水鉄砲に慣れ親しみ信者と化した潤pは、インドにも当然銃口を門戸に向けにやってきた。
張り切ってケツをむき出しインドのトイレに勇終え、さていつも通りと壁にかかるウォーターガンに手を伸ばすと、そこに愛用のガンはない。
はて?
代わりに置かれていたもの、小さなオケ。
ペーパーも無ければゴミ箱もない。あるのは和式便所の変化系と、横に添えられた小さなオケ、そしてそのバケツを頭上から狙う蛇口だけである。
むき出しのケツを和式もどきの便所に向けた状態で二進も三進もいかなくなったこの状況を、人は絶体絶命と呼ぶのだろう。
インド神よ、一体我に何を望む。
ふとそこで、小学校の時の若かりし記憶が蘇った。
それは、給食の時、クソまずいと有名だった我々の給食配給会社が、何を血迷ったかナンを出してきやがった日があった。
珍しい献立に、一同は盛り上がりを見せるが、1人の調子に乗ったマセガキの友人が、
インド人は左手が汚いものだってされてるから、ナンは右手で食べるのがマナーなんだよ。
その一言で教室中が四苦八苦しながら右手だけで飯を喰らい始めた。
その発言をしたガキが教祖のように神々しく光る光景で、潤pの記憶は途切れていた。
そんなワンシーンを、ケツを水面につけるほどに落とした哀れな格好で回想しているからそれはさぞかし阿呆なことのようだろうが、この一連の回想は、潤pにこの絶体絶命のピンチを乗り切るための活路を見出させた。
小さいバケツ、そのバケツの真上にある蛇口?左手が汚いもの??
密室における絶体絶命の状況下に置かれ、複数のキーワードが頭をめぐり出すと、自然とBGMはスプラッタ映画SAWのテーマソングとなる。
Hello, 潤p. l want to play a game.
ジグソウが、足に巻いた鎖を、ノコギリで足を切断して断ち切らせたように、今回の潤pの血の代償の鍵を握るのは、汚れた左手というものだった。
意を決した潤pは、蛇口に手をかける。
勢いよく噴射する水は、俗世を離れてしまうこの瞬間への涙の別れを覚えさせる美しさと、枯れることのない広大さを示す滝のように真っ逆さまにバケツに流れ込むと、一瞬にして水で満たしてくれた。
満たされたオケを、右手で持つと、向かう先は、僕らのアイドルブラックホール。
これから昇天される左手を拳とともに高く天に突き上げると、真っ逆さまにバケツとの共同作業に入るのである。
そう、潤pは今、ケツを、小さなバケツと満たされた水を使い、器用に、この左手で洗い流しているのである。そう。指で、この指で、身体の出口を愛でているのである。
1ヶ月後、潤pはドバイの空港に降り立っていた。
いつものように用を足しにトイレに向かうと、見慣れない、筒状に巻き上げられたパピルスのようなものが壁にかかっている。
はて?
これは何なのか?
トイレットペーパーと呼ばれるその不思議な白い紙のようなものが設置された密室。
今か今かと熱り立つ左手をよそに、そこにオケはない。
ここにまた、新たなゲームが始まるのである。
Hello, 潤p. l want to play a game.