人の為のボランティア?誰のためのボランティア? ボランティアが壊してしまう、現地の「活きる」。
カンボジアのシェムリアップでは、
大小様々なボランティアやNPO, NGO団体が入り込んで様々な活動をしています。
組織だけでなく、個人としてボランティア活動で飛び回る人も多く、
「助けてあげなくちゃいけない対象」
としてのカンボジア・シェムリアップの魅力は大いにあるようです。
潤pの昔からの興味関心と研究テーマとして、
「ボランティアの弊害と偽善性」
というものがありますが、
ここシェムリアップも、そんなことに思いを巡らすのには格好の場所。
今回は、これまた色々な考えがあると思いますが、
率直に潤pがカンボジアのボランティアの現状を見て思うこと、
綴ってみます。
東北で気づかされる、本当に「偉い」人。
そもそも潤pが、上記のテーマに関心を抱いたのは、
「被災地」としての東北に学部の実地調査に赴いた時のこと。
親戚に東北の人が多いことも、
このフィールドワークに参加した大きな理由の1つですが、
ボランティアが自身の欲求を満たすために被災地に赴き、
身勝手な支援で現地を荒らすことが問題になっている、
というニュースをどこかで見かけ、
昔からのボランティアに対して物凄い不信の念を頂いていた自分の感性と相まって、
本当に支援を必要とする人と、
偽善性からやってきた傲慢な支援者との
ミスマッチを見てみたいと思ったからなのでした。
しかし、実際に現地に訪れると、被災者の方から一喝!!
「偽善でもなんでも、来てやってくれる人が1番偉い」
来もしないで遠くから批判する人間よりも、
どんな動機にしろ目に見える形で動いた人は「偉い」。
なるほど、その通りだ。(そのことに関して詳しくは昔の記事でhttp://blog.livedoor.jp/jumpewi/archives/1001851872.html)
自分の胸に突き刺さり、
それ以降、自分の足を使って直に触れることの重要さを理解するとともに、
ボランティアという言葉に対してなんとなく広い気持ちで接することができるようになりました。
どうしても無くならない、NGなボランティア。
ただ、今までの自分の考えも否定しているわけではなくて、
天邪鬼な目線もある意味大切に持っていてもいいんじゃないかなとは思ってます。
世界中から格好の支援の的となっている
カンボジア・シェムリアップも事実、
「ボランティアの弊害」事例を聞くことがあります。
学校を作るだけ作って、そのあとの運営は丸投げ。
ちゃんと先生や管理方法が整わず、
ボランティア撤退後に学校閉鎖とか、
全く特産品でもなんでもないキーホルダーやアクセサリーを大量に作らせて、
結局売れず赤字で撤退とか。
よろしくない話はたくさん転がってる。
2年前も合わせて、
カンボジアのシェムリアップでは潤pもいくつかの団体をのぞかせて頂きました。
団体ごとに理念や政策、雰囲気がそれぞれ異なって、
それがまたユニークで興味深いのですが、
それらの活動を見させて頂けば頂くほど、
僕の中の1つの感情が強く刺激されます。
カンボジア人の生活の「抜本的」改革は、幸せへの本当の近道?
ある支援の中で、
カンボジア人達の生活を抜本的に改善するということを掲げている活動がありました。
その手段として、
お金を貯める習慣のないカンボジア人に銀行口座の作り方を教え、
そのボランティア団体のもとで得た賃金を銀行口座に振り込むことで、
預金という習慣を覚えさせるという方法を取っていました。
そうすることで将来金銭的に自立した個人を生み出そうと、
そうゆう理念で運営されていました。
しかし、どうしても、
ここに僕は引っかかってしまう。
その土地の生活様式や文化、
その人達に脈々と受け継がれてきた価値観というものをなによりも価値のあるものだと考えている僕にとって、
この銀行システムという西洋的なライフスタイルの導入は、
その土地への入植行為と、文化破壊なような気がしてしまってならないのです。
もちろん、これからの将来、彼らのお金が少しでも増えて、経済的にも豊かな暮らしを送るためには、
銀行口座の開設と、貯金という習慣はとても大切なことであることはわかっているし、
そうすることがカンボジア人のためになることも重々承知ではあります。
ただ、そうすることで、
失うものが必ずあると思うんです。
お金を貯めることをせずに、
その日のお金はその日に使う。
その価値観の奥にある、
その土地独自の文化や歴史的バックグラウンドだったり、
それだから成り立っていた何かが、
その入植行為でなくなってしまうのかもしれない。
画一化された先進国の価値観に生きる僕らにとって、
貯金しないことは馬鹿げているように見えるし、
銀行口座も持ってないのはまともな人間にすら映らないのかもしれない。
でもだからといって、
僕らと同じ生活に無理やり路線変更させることだけが彼らの幸せと必ずしもイコールになるのか。
僕は絶対だとは思わないわけです。
高校の時に読んだ見田宗介の有名な著書「現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来」(Amazon CAPTCHA)で書かれていたことが未だに強烈に印象に残っていて、
思い返せば多分僕の価値観の根底になっているとさえ思うのだけれど、
世界一般とされる経済感覚のものの見方を通して「貧困者」を見ると、
彼らは「貧困者」になるという話。
銀行口座をまた例に出して言ってみると、
銀行口座を作るという「当たり前」の各地への当てはめは、
必ずしも僕らと同じピースとして彼らのパズルにぴったりとおさまらないということ。
つまり何が言いたいかっていうと、
僕らの「当たり前」は、
彼らにとっては「当たり前」には必ずしもならないということ。
多分これからカンボジア人の所得はどんどん上がっていくだろうし、
街も価値観も、物凄いスピードで変わってくんだと思います。
逆に、こんなこと言ってる僕自身が、
彼らの豊かさを阻害する意見を述べているのかもしれないけれど、
そもそも自分の当たり前を未だに崩せずにこんな感情を抱いてしまう自分がどーなのって話かもしれないけれど、
それでもそれで失ってしまうものがあると思うと、
どうしても寂しい気持ちがしてしまわずにはいられないのです。
もちろん、
ボランティア団体それぞれ活動が異なり、
全ての活動をそのように捉えているわけではありません。
素晴らしい活動をされている人々が、
むしろほとんどかと思われます。
ただ一部として、
良かれと思うお節介が、
壊してしまうもの。
天邪鬼な意見かもしれないけれど、
そんなことを思うんです。