JICAの日本人教師に、人生を変えられたケニア人。- ナイロビ・ニューケニアロッジで働くピーターさん。
世界中、無数にあるゲストハウス。
ゲストハウスのスタッフは、バックパッカーがその国で初めて関わるローカルの人だったりしますけども、
彼らも様々な人生を背負いながら、今そこで働いているのです。
ケニアの首都ナイロビの、有名な日本人ゲストハウス、ニューケニアロッジ。
こうゆう危険なところって、だいたい自然と日本人宿ができたりするように思います。
そこで働くのがこちらピーターさん。
51歳になる彼の人生は不思議なほどに、日本と縁の深いものでした。
今回はピーターさんのライフコースから、ケニアで「働く」「生きる」紐解いていきます。
名前:ピーター
年齢:51歳
職業:ニューケニアロッジ スタッフ
何もなかったケニアで、働きながら学んで、生きてきた。
毎晩20:00ぐらいにやってきて、夜通し朝までゲストハウスの管理を務めるピーターさん。いつも眠たそうに、たまに寝てる、気さくで愛くるしい方なのです。
ニューケニアロッジで働いてすでに20年という一番の古株。
大学に進むことができなかったピーターさんは、働きながら様々なことを学んできたと言います。
初めは小さな露天の物売りから始まり、宿泊業を経験、ニューケニアロッジに落ち着いたそう。
ピーター:私の時代はほとんどの若者が大学になんて行けなかったからね。皆んな、とにかく生きるために働いて、色んな仕事を経験して、そうやって学びながら必死に生きてきたんですよ。
子供が2人、超優秀だった!
*ニューケニアロッジの屋上からの景色
現在、4人の子供の父親でもあるピーターさん。
上の2人の子供は、ケニアッタ大学という国で2番目に優秀とされる国立大学へ進学しています。
ピーター:初めの子は半分奨学金で、次の子は全額奨学金で大学に行きました。1番上の子は29歳で、ケニアのNPOで働いています。次の子はついこないだ大学を卒業して。あとは、小学校高学年と、2歳。この2人も大学に必ず送り届けるつもりですよ。
そう誇らしげに子供達の話をするピーターさん。
しかし、現実、この仕事では4人の子供たちを大学まで進学させる費用を捻出するだけの余裕はないそうです。
その中で2人の子供を進学させたピーターさん。その苦労は想像に難くありません。
一体なぜ、それでも子供達を一流大学まで進学させるのでしょう。
小学校の時の先生が、日本人だった!?
ピーター:実は、小学校の算数の先生が、日本人だったんです。
ピーターさんは、ナイロビから離れた、田舎町の出身です。
当時、ピーターさんの通っていた小学校には、日本のJICAから、算数やその他いくつかの科目の教師が派遣されていたと言います。
ピーター:今でも〇〇先生のことはよく覚えていますね。日本人の先生たちの授業がとても楽しくて。結局、家庭の経済事情で大学に進学することは叶わなかったんですが、小学校の時に習えた経験があったからこそ、学歴もなく経験もない私が仕事をこれまでやってこれています。とても感謝しています。
当時を振り返り、学習の重要性を知ったと語るピーターさん。
今の宿が日本人宿であることにも、不思議な縁を感じると言います。
ピーター:大学へ自分が行けなかったからこそ、そして、学習の重要性を知っているからこそ、子供をなんとしても大学までは送り届けたいと思っています。それまで、どんな手段を使っても、頑張りますよ。
格差が激しいケニアでは、未だに多くの若者が将来を不安定にその場しのぎの生活で日々生きています。
その人生に教育が加わることで、子供達の人生の選択肢が大きく広がると、ピーターさんは経験から信じています。
未だになくならない貧困の糸口は教育にあるとして、身を粉にして子供達を大学まで送り届けました。
まだまだ終わらない、51歳の闘志。
ピーター:実は、今他にも夢があって。子供たちが全員大学に入ったら、自分で何かのビジネスを始めようと思ってるんです。
一見温厚なおじさんに見えて、闘志も燃やし続けている、ピーターさんはそんな方でした。
JICAの活動が、1人の現地人の人生を変えました。
ちょうど潤pの滞在期間中、ナイロビではアフリカ開発会議(TICAD)が開催され、安倍首相も訪れての盛り上がりを(一部で)見せていました。
6兆円の支援だの次元の違いすぎる話が、一般人には固く閉ざされたヒルトンホテルの一室で行われていました。
しかし、日本人の先生がケニアの奥地で授業をする。
そんな小さなことが、1人の、いや彼の次の代までもの人生を変えてしまう結果をもたらしました。
6兆円で変わる世界もあれば、誰も知らない授業が変えられる人生もある。
本当の支援とは、案外こうゆうものなのかもしれません。